大阪高級デリヘル ホテヘル 「アルティマトゥーレ」 関連情報 経営者列伝

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経営者列伝

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ニュースソース http://toyokeizai.net/articles/-/68364

東洋経済オンライン
アダルトビデオ界の大物は、どんな男なのか
異色経営者DMMグループ亀山敬司伝
高橋 篤史 :ジャーナリスト 2015年05月02日
執務室から東京の街を見下ろす亀山氏(撮影:梅谷秀司)

飄々(ひょうひょう)としてまるで飾るところがない。セーターにデニム、それにスニーカーといったいでたち。腕時計もしない。代わりに入館カードか何かが入ったプラスチックケースだけは律儀にも首からぶら下げている。長いことアダルドビデオ(AV)業界の「フィクサー」や「黒幕」と呼ばれてきた男にギラギラしたところやアクの強さはかけらもない。むしろ脱力系と言った方がいい。

謎の経営者とささやかれた男

「エロやってればたたかれる。目立たないようにせざるをえなかった。今は発信していかないと、社員が色眼鏡で見られてかわいそうだから。やってることを隠すつもりもないしね」

DMM.comグループを率いる会長の亀山敬司はかつてマスコミどころか社外の付き合いもほとんどなく、飲みに行くのも年に2、3回だけ。謎の経営者と言われた。極端な話、「本当にいるのか?」とささやかれたほどだ。

「エスワン」や「ムーディーズ」といった有力レーベルを育て、流通システム「アウトビジョン」に他メーカーを次々引き入れる亀山の経営手腕は、AV業界の川上から川下まで制する一大帝国を築き上げた。2001年に稼働した今の加賀事業所(石川県加賀市)には音声認識システムを導入したピッキングエリアに2万タイトルが並び、見上げるほどの自動倉庫には650万本の在庫が備わっている。

近年、グループはAVで蓄積した利益を投じ、インターネットによる動画配信や各種通販に手を広げ、FX(外国為替証拠金取引)では口座数が業界1位を獲得した。サーバー増設が追い付かないほど人気の『艦隊これくしょん』をはじめとするオンラインゲームや、格安料金が売りのオンライン英会話、それにモノづくり革命を起こすともいわれる3Dプリントなど、事業領域はなおも拡大の一途だ。グループ従業員は1000人を突破。一昨年、主要各社の純利益は合計で100億円を超えたとみられる。

それにつれ、亀山は4~5年前から少しずつ交友関係を広げ、最近では連載マンガに実名で登場するようにもなった。そして今回、自らの半生を余すところなく語った。一体全体どんな男なのか――。

石川県加賀市は田園風景の向こうに霊峰・白山の雄大な山塊を望むことができる日本海側有数の温泉郷だ。人口はおよそ7万人。そこに周辺を含めれば年間500万人以上の遊客が全国から訪れる。1961年3月、亀山はこの地で生まれた。

実家は商売を手掛け、地元で「浜茶屋」と呼ぶ海の家やカメラ屋、呉服店、飲食店、果ては手取川での「フィッシュランド」と、田舎町でおよそ考えられるかぎりのことを次から次に試した。片山津温泉でキャバレーを構えた時期もある。住み込みで働く数人の女性からはその頃「ケイシ君、ケイシ君」とかわいがられた。

少年時代はどこか風変わり

「授業中はずっと寝てましたね」――。県立大聖寺高校で同級だった中西隆彦は当時の亀山の様子についてそう笑い飛ばす。地元のとびきり優秀な生徒が隣町の小松高校に進む一方、大聖寺高校は二番手といったところで、それでも金沢大学には毎年数十人が合格する進学校だった。もっとも、亀山にこれといった得意教科があるわけではなく、部活動も登山部に出入りしたり、柔道部に顔を出したりといった具合だった。中西によれば、絵を描くことが好きな亀山はある日、友達数人を誘って、悟りを開こうと山寺に座禅を組みに行ったことがあったという。どこか風変わりなところがあった。

高校卒業後、亀山は税理士を目指して上京し、大原簿記専門学校に通うこととなる。が、先生から「税理士は将来苦労するぞ」と言われ、2年も経たずにあっさり考えを変えた。〈商売しようかな〉――。そう思い、友人と2人で貸しレコード屋を始めることにした。まずはアルバイトである。が、開業資金はなかなか貯まらなかった。

ある日、バイト先から帰る途中、六本木で外国人が道端に布を広げアクセサリーを売っていた。亀山はとっさに願い出た。「やり方、教えてください」――。その時、19歳で教わった露天商が商売の原点だ。

都内の繁華街だけでなく青森のねぶた祭りにまで遠征した亀山は露天商のコツをすっかりつかむと、まとまったカネを貯めては海外に半年ほど放浪の旅に出ていた。捨ててもいい服に下着が2、3枚。安宿に泊まり、所持金に困るとチップ仕事にありついた。結婚して会社が大きくなっても、そうした旅には時折出る。内戦下のボスニアではスパイと疑われ半日ほど拘束されたりした。

郷里に帰ったのは24歳の頃。姉の妊娠がきっかけだ。姉夫婦は加賀で昼はフルーツパーラー、夜はカラオケ店を営んでおり、亀山は手伝いを頼まれ帰ることになった。傍ら、自らの手で新たな商売を始めた。カラオケ店の2階が空いており、そこで麻雀荘を開いたのを手始めに、プールバーの店も出してみた。

そんな中、レンタルビデオがはやり出したのを知り、小松市に1号店を出す。が、すぐ近隣に大型店ができ、在庫を持って加賀に引っ込んだ。地元ではうまく行き5店舗ほどまで増やしたが、今度は金沢から大手が進出してきた。極真空手家としても著名な浜井識安が経営する「ビデオシティ」は北陸を席巻しており、亀山は「もう勝てない」と確信する。思い切って浜井のところに行き、こう言ってみた。「フランチャイズになりますから、加賀に来ないでください」。浜井は面白い奴だと思ったらしい。亀山はビデオシティ傘下で自由に経営することを許された。

そうこうするうち亀山はレンタルビデオの将来を想像するようになっていた――。

=敬称略=

アダルトビデオで儲かるのは「販売」ではない
異色経営者DMMグループ亀山敬司伝
高橋 篤史 :ジャーナリスト 2015年05月05日
近代的な設備を整えた物流拠点。国内外から見学者が次々と訪れる(筆者撮影)

亀山敬司が今日に到る飛躍を成し遂げたきっかけは、人気映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」シリーズをふと観たことだった。

〈ビデオはなくなり将来は電波か何かでいつでも映画が観られるようになるんじゃないか〉

高校生がタイムマシンに乗って過去と未来を行き来するというハリウッド仕立ての斬新なSFストーリーを観て、亀山は直感したという。

〈それでも、メーカーなら生き残れるのでは〉――。

亀山はそう考え、部下をひとり、東京に行かせた。すると、映画はとても無理だが、アダルトビデオ(AV)なら1本100万円で制作できるという。1990年、29歳になったばかりの亀山は「北都」を設立し、AV事業に乗り出した。

倒産が頻発する問屋対策のための販売方法

当初狙ったのはレンタルだ。が、「アリスJAPAN」など強豪に棚を独占され、入り込む余地はない。そこでセルビデオに切り替えた。ところが、間に入る問屋がしょっちゅう倒産する。その度に売り上げの1~2割が飛ぶ。だったら自分たちで小売店に売ろうと意を決してはみたものの、それだけの営業マンや拠点網は持ち合わせていなかった。

そこで考えたのが「富山の薬売り方式」と呼ぶ委託販売制だった。毎月の新作を段ボール箱に入れて宅配便などで大量に送り込む一方、小売店側の返品は自由というやり方だ。返品率は決して低くなかったが、この方式にはミソがあった。当時はまだビデオテープの時代。返品テープは上書きが可能だった。シールを貼り替えれば新作に早変わりである。

その頃、地元・加賀市内は片山津温泉のど真ん中に放置されたままのスーパー跡があった。かつての名は「ハッピー片山津」。天井はボロボロで穴だらけだった。AV事業を本格化させるため、亀山はそこを格安家賃で借り、ダビングと物流の拠点にすることとした。
亀山はコスト意識が強い。業務用デッキは使い勝手がよく丈夫だが数十万円と高い。そこでせいぜい3万円の市販デッキを大量購入し、24時間フル稼働させた。ある位置に立つと、大量のデッキは面白いことにリモコンひとつで一斉に動き出す。やはり次々に壊れたが、その都度、新品に交換していく。結果、全体のコストは安くついたのである。

温泉街のAV工場には最盛期、縦横100台ほどのデッキが詰め込まれたラックが所狭しと並び、その総数は2600台ほどにも上り、それはじつに壮観だったという。年間に購入するデッキの数は約5000台にも達した。工場内では制服姿のパート女性たちは黙々とAVの出荷作業をこなしていたという。

製作現場には顔を出さない

軌道に乗ると、亀山は小売店にPOS(販売時点情報管理)システムの無償提供を始めた。すると、女優や監督、制作会社ごとの売れ筋が見えてきた。加賀の事業所にこもりその分析をすることが亀山の日常業務だ。だから制作の現場に顔を出したことはない。やがてその情報分析が有力レーベルに結実し、パッケージ写真さえうまく撮れていれば売れるという時代に終止符を打った。

その昔、AV業界はロレックスとベンツを買えば一丁上がりと揶揄された世界だった。そんな中、亀山の正攻法は向かうところ敵なしで、委託販売制を柱とするアウトビジョンは版図を広げ、本人が呼ぶところの「ピンクオーシャン」を深く静かに制覇していった。

その根城ともいえる今の加賀事業所も、倒産した観光施設を格安で買い取ったものだ。そこで現場指揮を執るのは高校の同級だった前出の中西隆彦である。その後、教職の道に進んだ中西はアメリカンフットボールで高校日本一を達成した名将で、15年ほど前に亀山から請われ、入社した。

「人の道に外れたことはすなっ!」というのが、亀山に対する中西の口癖なのだという。

亀山がインターネットの動画配信に取り組んだのは1998年と後発だ。証券会社出身ながらIT(情報技術)方面に詳しいという松栄立也を知り合いの税理士に紹介してもらい、会ったその日から責任者にスカウトするという、まさに素人が手探り状態の中で始めたものだった。

ネット事業を始めるにあたり、最初の関門はクレジットカード決済だった。業者にシステム開発を見積もってもらうと、時間とカネがひどくかかるという。そこで亀山らは考えた。カード決済に必要な情報は番号と有効期限だけである。ならば、ユーザーにそれらを入力してもらい、審査なしでIDとパスワードを即時発行したらいい――。

じつは裏側ではこんなことをやっていた。松栄の知人が金沢で書店を経営しており、そこにカードの信用照会端末があった。それをいいことに、パート女性を1人雇って、ユーザーの入力情報を1件1件手作業で端末に打ち込み直し、利用可能か確かめたのである。利用不可なら発行IDを停止すればいい。実損は大してない。さすがにこの「なんちゃって決済」はすぐ人手が追い付かなくなったが、亀山の現場感覚を物語る格好の逸話と言えるだろう。

そんな手探り状態ではあったが、ネット事業は着実に成果を収めていった。俳優や監督など関係者間の権利関係が複雑なことから動画配信になかなか乗せられない映画と異なり、亀山はAVの権利をすべて押さえていた。新作だけでなく総集編をリリースすればコスト回収はより確実に進む。動画配信についても行く手を遮る障害は何ひとつなかった。どこかから仕入れて「販売」するのではなく、すべてを自前で「製造」する。まさにそれが成功のカギだった。

=敬称略=

アダルトビデオ界の大物が切り拓く新境地
異色経営者DMMグループ亀山敬司伝

高橋 篤史 :ジャーナリスト 2015年05月08日

亀山敬司がアダルトビデオ(AV)の世界から本格的に打って出たのはここ10年ほどである。「デジタル・メディア・マート」の略称である「DMM」を新たな旗艦ブランドに打ち立てて、それを前面に押し出したテレビCMの放映を大々的に始めた。そして、2008年には200億円の大台を突破した潤沢な内部留保を、新規事業に惜しみなく投資した。DMMの名が一般のビジネス界で強く意識されだしたのは2009年に買収したFX(外国為替証拠金取引)事業の躍進からと言えるだろう。

今の亀山はどちらかと言うとベンチャーキャピタリストに近いかもしれない。4年前からは「亀チョク」と呼ぶ仕組みを始めた。起業家らアイデアを持った人間を業務委託的に雇い、実働部隊と資金を与えて存分に働いてもらおうとの試みだ。

「50歳にもなるとアイデアが浮かばなくなる。SNSやスマホとなると頭がついていかない」と亀山は率直に認める。それを補うのが亀チョクだ。そうして生まれたのが人気ゲームの『艦隊これくしょん』であり、時代を先取る3Dプリンタである。

金曜は若手起業家と立ち飲みバーへ

毎週金曜の深夜、このところの亀山は都内の立ち飲みバーに寄ることが習慣になっている。若い起業家らとの話が刺激になるからだ。彼らからは親しみを込めて「亀っち」と呼ばれたりする。

今やそのうわさはベンチャー業界でかなり浸透しているらしく、亀山に資金を出してもらおうとその店にやって来る若者は引きも切らないのだという。自称・引きこもりだったかつてと異なる亀山の姿がそこにはある。

はたして経営者・亀山の強みは何なのだろうか――。DMM.com社長の松栄立也は「撤退の早さ」がそれだと言い切る。完成間近のプロジェクトでも競合の動き次第で突然やめる。そんな時、会議で部下に詰め寄られる場面もある。「ごめん、ごめん。次やりたいことあるから」と例の脱力系の物言いで、亀山はその場を収めてしまうという。「ワンマンだけど憎めないずるい性格」と松栄は笑う。


亀山は過去、旅行代理店を潰したし、最近もクーポン事業からは撤退している。が、引く経営は裏返せばそれだけ多くの商売に挑んできたことでもある。

亀山の中では「たまたま当たったのがAV」との感覚が強い。やってみたら売れたのだ。「自分の感性よりも、実際売れているかどうかに素直に従う」と話す亀山のこれまでは試行錯誤の連続だった。

部下を信頼し、人を憎まない

部下を信頼し、人を憎まないのも特質だろう。亀チョクと異なり、一般従業員は終身雇用が基本。でなければ優秀な幹部は育たない、と考える。「だって普段、会社は上前をはねてるんだから、やばい時に保護しないと組織の意味がない」とは亀山の弁だ。

またこんな例もある。以前、AV事業の大幹部が不正をして税務調査に入られる騒ぎがあったが、その人物を解雇しても付き合いは続けた。「最大の功労者だもん。悪気があったわけじゃない。おカネが目の前にあれば誰でもそうなっちゃうでしょ」。亀山はさらっとそう話す。「悪気がない」とは言い過ぎな気もするが、世知辛い世の中、これほど性善説を信奉する経営者も珍しい。

「考え方がシンプルできっちりしている」。かつて日本ベンチャー協議会を主宰し、経営者の浮き沈みをいやと言うほど見てきた天井次夫は亀山をそう評する。会食の帰りにDMMの若手社員に渡したタクシー代1万円を、亀山は翌日、茶封筒に入れ丁重に返してきた。社内で禁じていたからだ。「そうしたことをできる経営者はなかなかいないよ」とさすがの天井でも感心する。

亀山はかつて高額納税者番付の常連で知られ、間違いなく日本有数の億万長者だが、生活ぶりは至って地味だ。毎日、30分かけて自転車で恵比寿の本社に通い、200円の駐輪場にとめている。休日には近所の麻雀荘をふらりと訪れ、学生らと卓を囲む。少し前までマイカーはマツダの「デミオ」。加賀に帰った時の移動手段は今でも小松空港で借りるレンタカーだ。

16年前に家族ともども上京したのは、名もなき一般人の生活に戻りたかったという面もある。「田舎は狭いからエロやって稼いでいる金持ちで有名だった。時には尊敬され時には軽蔑される微妙な立場。それが東京に来たら誰も(自分を)知らないから普通に近所付き合いできる」と亀山はしみじみ語る。取材は顔写真NGだが、顔が売れると一般人扱いされなくなるとの思いからだ。

亀山がAVで成功を収めたのは加賀の土地柄と無縁ではあるまい。北陸人の堅実さと温泉街の一種猥雑さが入り交じり、商売の貴賎は軽やかに相対化される。亀山がAVを始める時、家族は「あっ、そう」とだけ言い、誰も反対しなかった。実母は80歳を過ぎても加賀事業所の食堂で賄い仕事に精を出す毎日だ。

最後は全部なくしたい

妻との間には一男一女をもうけた。長男は今春、新社会人となったが、じつは亀山に内緒でDMMの面接を受け不採用になっていた。そのことを亀山は愉快げに話す。子供に会社を継がせる気はもともとない。「苦労なく楽しく商売してきた」という亀山からすると、継いだ会社の現状維持で汲々(きゅうきゅう)としている2代目経営者は可哀想な存在だ。破滅型とは到底見えない亀山だが、将来については意味深にもこう語る。「最後、全部なくなることが理想」と。

絶好調だった証券子会社が2014年3月期に一転して大赤字を計上し、安定成長を続けてきたグループ経営は異次元に入った感もある。中核業種の特殊性もあり株式公開をする考えはない。グループの全体像がつかみにくい点はぬぐえないが、亀山に会ってみると、これほど偉ぶらず地に足の着いた経営者も今どき珍しいと感じる。その人生を亀山はどう全うするのか。いっさい予測できないところが、この男の魅力なのかもしれない。

=敬称略=



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